(6) 加藤晴子さんの書簡(上)(一)
 〜加藤さんから見た内藤成雄さん、をお聞かせください。
 加藤さんに筆者が手紙で問い、返書を頂いた。
 ==@内藤先生が「富士山麓と文人たち」を新聞に掲載され始めた頃、此れはやがて高浜虚子先生に及ぶだろうと思った私は、往時山中湖の虚子山荘に出入りした事のあった人達の思いで話を、そのまま受けとめられてはとの不安があった。虚子先生がホトトギス誌に発表された文章と相違のある部分があったからだった。==
 加藤さんは岳麓俳句協会の会長であり、市文化協会の副会長である。 加藤さんが書簡@でまず高浜虚子に触れているのは、加藤さんが虚子に近い位置にいるから。 加藤さんの尊父林鞆二の墓には、虚子の句碑が墓守りのように立つ。加藤さんの俳句は、俳誌ホトトギスによく載る。 ホトトギスは、正岡子規の名前から取って名づけられ、明治30年四国松山で創刊させたが、高浜虚子が同31年東京で俳誌を発行したとき、子規の指導でこの名前が継がれた。虚子の自伝に、私の俳句の歴史はホトトギスの歴史になると誌す。
 虚子の山荘が山中湖にあり、岳麓の俳人が集まるなかに加藤さんがいただから加藤さんは、虚子山荘出入りの真実を語りたかったのであろう。

(7) 加藤晴子さんの書簡(上)(二)
 加藤さんから見た内藤成雄さん、という書簡は@からAへ続く。
==Aそんな時、人を通じ虚子山荘の事を知りたいとの先生からのお話があり、それとばかり其れ等の文章の載ったホトトギス誌やら書簡を持ち込んだり、高浜家の了解を得、山荘へご案内もして急速に先生に近付いてしまった。==
 虚子山荘に出入りした北麓の人たちの思い出話は、ホトトギスに載った虚子の文章と相異あるのに、そのまま内藤さんの執筆する文章に引用されては、との加藤さんの不安(書簡@)は、そのまま加藤さんの内藤さんへの注文と受けとめてもよいだろう。内藤さんが「富士北麓と文人たち」を毎日新聞山梨版に書きはじめたのは83年10月からで、週1回の掲載で文人1人について3回続いた。それを読んでいた加藤さんは、やがて高浜虚子がとり上げられると直感し、その際は正しい資料によって内藤さんに書いて欲しいと思っていた。
 一方内藤さんは、加藤さんが虚子に近い位置にいることを知っていたに違いない。こうしたお二人の思いが一つになり「文人 虚子」の章ができ上ったのは、北麓文化にとって幸せなことであった。 
(8) 加藤晴子さんの書簡(上)(三)
 加藤さんから見た内藤さん、の結びである。
 ―― B同書の虚子の項も誰が見ても納得、やがて一書となった「文人たち」だが、最近はホームページ虚子の項には、内藤先生の名はなく、此の項が丸々と載っている。先生に著作権問題も、というと「いいわ、そんなことは」と…。そんな仲で今もお近づきさせて頂いている。――
 書簡Bに書かれた、内藤さんの人柄への加藤さんの思いを、こぶし22号所載の文章でも見よう。
・・・文化協会の会長を内藤先生がなさっておいでになり、私が市の俳句協会の会長をした時も大変お世話になりました。他の副会長さんに伍してやっていけるかどうか、心配している私に内藤先生は言いました。「できるじゃないか、出席だけはできるだろう」と笑いながら。夫も協力してくれました。・・・
 内藤さんは加藤さんのことを、「文人たち」に次のように書いている。
――虚子は月江寺の故林鞆二の墓に詣でた。熱心なホトトギス投句者だった彼は病弱で、「秋の雲影落したる裾野かな」の句で虚子の選を受け、満ち足りた思いで死去した。――
「羽を伏せ蜻蛉杭に無き如く 虚子」の句碑はその墓の傍らに建つ。長女加藤晴子はその恩を一世の思いに、ホトトギス門で句作に励む。

(9) 加藤晴子さんの書簡(中)
 「雪解流という言葉は内藤成雄さんが作った?」
(加藤さん) 「雪解流は確かに内藤先生の造語です。富士吉田市文化協会の機関誌発刊の折、会長であった先生が雪解流と考案、命名されたと聞いております。その雑誌が号を重ね、会員に読み継がれていく中に、雪解流の言葉に感動、先生の許しを得て、地元の銘酒の名称となったりしております。余談ですが、私もその名に惚れ、地酒雪解流を県外への土産にしたりしています」。
 地酒雪解流の誕生物語は、富士山の伏流水が北麓に湧き出している貌(さま)に似ている。船津の井手醸造店で、井手家21代の当主與五右衛門(襲名前・光彦)さんは語った。「6〜7年前酒米(さかまい)作りを心に決めたのは、近年の温暖化で吉田の地も適地になったと思ったから」。新屋の水田で、6名のグループにより育てられたのが諏訪産の種、美山錦(ミヤマニシキ)。富士山の水で吟醸(ぎんじょう)して富士吉田限定酒が生まれた。井手さんは先代も友好のあった内藤さんの承諾を得て「雪解流ゆきげりゅう」と命名、レッテルの字は渡辺寒鴎さん、絵は井手さんのデザインである。
 雪解流とは富士山の伏流水のこと、と野村静谷さんにおしえられた。

(10) 加藤晴子さんの書簡(下-1)
 内藤さんについての書簡の、続きを加藤さんからいただいた。
 @〜やがて「・・・文人たち」は新聞に掲載された方々の他に、先生の思い入れで何人かを加え、一書となり好評を得、版を重ねる事になりました。私には辞書的存在です。
 虚子先生の句碑も岳麓に六基あり、ホトトギス俳人として、県外の方々からその案内を頼まれる事も多々あります。 加えて、太宰治・三浦環 の碑の案内の時等、先生にお断りして「文人たち」を資料に使わせて頂いております。そんな事で案内ながら親しい人達には「文人たち」をお土産に何冊か持たせましたが、最近次男がインターネットからと山中湖にある高浜虚子山荘の項のコピーを持ってきたので読むと、それは見覚えのある内藤先生の「文人たち」の高浜虚子の項そのままでした。私から誰かに渡した物と直感、後日先生に著作権もあるでしょうに申しあげると「いいじゃんか、そうして使ってくれれば」でした。〜
 書簡の中で「・・・文人たち」「文人たち」と書かれている正式書名は内藤成雄著『富士北麓と文人たち』である。

(11)加藤晴子さんの書簡(下-2)
 内藤成雄さんについて綴った加藤さんの書簡の続きである。
A〜〜新田次郎先生に関しては、万人の知るところですが、先生が会長の富士こぶしの会があります。その会の行う「富士北麓と文人たち展」の、第一回の時だったと思いますが、土屋文明、高浜虚子、を中心にそれぞれの私宝が飾られました。
 先生出品の土屋文明コーナーの前に立った新聞記者が「おかしい、地方に文明先生の軸があるなんて」等々を言い文明コーナーから離れないので此の人が帰ったらお昼に戻るつもりの私は、虚子コーナーの説明をしようと声をかけると、「短歌を作り吉田に短歌の友もおるがその人からも聞いてないし、土屋文明という人は、滅多に書かない此れほどの物があるなんておかしい」とまで言うので、私は私で知らない方がおかしいわと思い、「文人たち」を読んでいないの、内藤先生を知らないのと疊みかけると、赴任したばかりだと言うやがて午前の診察を終えられた先生が見えられ、此の記者も先生との交流が始まった一人でしたが「文人たち」は大きな輪を広げております。〜〜(写真は『土屋文明 歌書』 ※内藤成雄著『富士北麓と文人たち』より)

加藤晴子さんの書簡(下-3)
 「内藤成雄さんのこと、私的公的にお世話になりました事多く、書きつくせませんが、人の長所を引き出せる方、長所を見出して下さる方と信じております。 内藤先生奥様も俳人であったり、そのお父様も俳人で虚子の句会にも出席されておられ、私の師匠筋 高浜年尾(虚子長男) 深川正一郎とも交流あったりで、伝統俳句協会誌『花鳥諷詠』は毎月贈らせて頂いている様子。当地方関係の事が載った時は必ず感想を頂きますが、贈呈誌も多々あるでしょうに読んでいらっしゃるのですね。新聞も三、四紙はご覧のご様子、真似もできません。 お話しを頂いた折、その都度、都度のお答えかと存じ、申し足りませんでしたので、一筆書き送ります。どうぞおよろしくなん、読者の反響多く驚いております。今朝も読ませて頂きました。ありがとうございました」。 (完)
 加藤晴子さんの書簡を頂けたのは、年賀状が縁だった。はじめのお便りを頂いた礼状に、雪解流の質問を添えたところ、ていねいな回答と地酒の話が述べられていた。
 こぶしの会の総会の席でお逢したときに、加藤さんはまだ書き足りないといわれたので、どうか思いのままにとお願いし続きの書簡を拝受した。

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