13、 野村泰彦さんにきく(上)
 野村さんには04年5月10日、野村書道塾で渡辺登治さん同席でお話を伺った。野村さんは書家(雅号は静谷)で毎日書道展の審査員、市の文化協会副会長の一人である。
 〜〜内藤成雄さんのことを教えて下さい。〜〜
 私は20〜30代のころ、北麓の文化を語り合うグループに入っていて、内藤さんが会の兄貴分だった。西裏でコーヒーを飲み、夜は内藤宅に集ったが、メンバーの多くは藤江克江さん主宰の四つ葉の家コーラスに入っていて、大庭三郎さんがギターを弾いて指導した。
 内藤さんは医者でありながら考え方は文科系の人。評論にすぐれ、短歌は大学時代からやっていたときく。
 私は戦後すぐから全国書道展に出品を続け、全国書道連盟に所属している。大庭さんとは同級生の仲で、内藤夫人とも同級生だった。夫人の父君は教員で、明見の教頭もやっておられた。
 内藤さんの功績は三つ
@市の文化協会を確立。
A「富士北麓と文人たち」 の著作。
B「雪解流」を発案。
 @については、他町村の文協が行政主導であったのに、吉田では内藤さんが中心になって文協の役割りと機能を確立したが、その功績は大きい。
14、 野村泰彦さんにきく(中)
 内藤成雄先生の功績の第一は、財団法人の文化協会をつくったこと。
 先生は、文協のような団体は自助任意団体であるべきで、行政から補助を受ける団体ではないという考えをもっていた。ところが80年代の実態は、教育委員会の文化振興課に運営をお任せのうえ、多額の助成金をもらっていた。先生は、文化団体がいつまでも補助を受ける団体のままでは自主性を失う危険があると主張していた。それは、文化は消費であって教育が投資であることとは本質的に違うとの考えからだった。先生はこのような考え方にたって、文化団体が自主性を失う危機におちいらないために、それまでの市文協が積み立てはじめていた文化振興基金を拡大するよう強調した.先生は、文協が財団法人として独立することをめざし、89年に渡辺皓彦市長に協力をお願いした結果、90年の市の予算に財団設立の補助金が計上され議会を通過した。同時に先生は、恩賜林組合長の梶原知之氏に寄附を要請し、氏の英断でそれが実現した。だから、財団設立の実際の貢献者はこのお二人だと、先生は言っているんですよ。
 参考・文協30年史

15、野村泰彦さんにきく(下)
 内藤成雄先生の第二の功績は、『富士北麓と文人たち』を著したこと。先生はいつも「北麓の文化人がもっと元気になってほしいと言っていた先生の北麓文化への激励が、この本という形をとったと言えますね。先生は新田次郎に傾倒していたこともあって、吉田の文化を語る会をもとうとみんなに提案したこともあった。 この本は、毎日新聞山梨版の83年10月26日を第1面とし、原則として週一面水曜日、文人1人を上中下3面に分筆、全22人計66回をもって、85年6月12日終了の連載をまとめている。
 先生の功績の第三は、雪解流(ゆきげりゅう)を発案して、文化協会の事業としたことです。それまで文協富士吉田という情報誌が発行されていたが、先生はそれとは別に会員の作品、研究の発表など総合文芸誌的な性格を持つ、文協の機関誌を作られた。先生は78年の創刊号から、シリーズ・郷土の作家を執筆して会員を励まされたんですよ。先生が言っているように、北麓には多くの文人が疎開し、避暑し、あるいは定着した。地元のグループはこれらの方々とのふれあいで育った。
 先生は、その記録として雪解流を作ったんです

back