落ち穂拾い 1
不思議なこと

 不思議なことが起ったんですよーー04年9月。
 顔を合わせるなり、酒販店灘屋の社長夫妻が口を揃えて言った。いままで出たことのない地酒・雪解流が売れ始め、その後も売れ足を伸ばしている。北麓漫歩でこの酒をとり上げたせいなのかねえ、と。 それは、本紙9月号の同欄で紹介した加藤晴子さんの書簡の文章で、この酒を県外への土産にしたりしているとの内容。
 船津の井出醸造店の社長がこの地酒を造り出した背景には、同店の長い酒造りの歴史がある。江戸末期、井出家16代與五右衛門が酒造りを始めた。北麓の冷涼な気候と、豊富に湧き出る富士山の伏流水に着目してのこと、折しも皇女和宮の婚姻にちなみ、開運と命銘したという。その後開運正宗として長く親しまれてきたが、85年、甲斐の開運を正式名として今に至る。21代與五右衛門の当主は語る。どの酒蔵でも一番苦労するのは仕込みに使う水だが、井出家の蔵で使う伏流水は、富士山の熔岩層を数十年かけて湧き出してくるから、ろ過をする必要もなく、枯れることのない水量に恵まれている。
 94年、国税庁主催の全国新酒鑑評会で金賞を得たと、当主は誇らしげであった。
落ち穂拾い 2
初めて俳句を作った

 俳句はどのようにして作ったらいいんですか、加藤晴子さんにそう問いかけたのは、こぶしの会総会の宴席だった。05年7月3日の夜である。
・開山の昨日にまさる 今日の富士
 答えの代りに示された句は、富士山の山開きの直後だっただけにインパクトがあった。こぶし25号の俳句欄にある加藤さんの句を読んで、あっと思った。
・富士吉田字松山や蔦紅葉
 見たまま、感じたままでいいんだよと、加藤さんはほほえんだ。そして加藤さんが示したのは、同欄の内藤杏子さん(内藤成雄夫人)の句であった。
・秋灯(ともし)ガレのグラスの花すみれ
 ガレとは誰のこと。こぶしの会の旅行先で作った、10句の一つである。生まれてはじめて、俳句をつくったそうだ。俺の歌よりもうまい、と内藤成雄さんはのろけたという。夫人の句を追加する。
・めぐり会ふ諏訪の大社の菊祭り
・いただきし団子ばかりの十三夜
・車座の秋の昼餉に加われり
・たつ道に柿の実少し正願寺
 筆者も俳句作りのノートを持ち歩こうか、そんな気にさせられた。
落ち穂拾い B
  この拙文を読んで下さっている方々のなかで、本紙の編集部に感想文を寄せられた方がいる。紹介するひとつは、下吉田の64歳の方のもの。「北麓漫歩は、楽しみのひとつです。吉田の歴史的なことがわかり、とてもうれしいです。暑さに負けないで下さい。」
 もうひとつは、下暮地の58歳の方のもの。「北麓漫歩。廃れる文化を地元の方のみの継承に留まらず、多くの方に関心を持っていただける様願い、愛読しています。」
 お二人の向うに、多くの方々の声が聞こえてくる思いである。こんなすばらしい触れあいの場を提供してくれている、佐藤新聞店の佐藤勝義社長に、この場をかりてお礼申し上げる。この落ち穂拾いのページは、内藤成雄さんのことを書くシリーズが長くなる予定なので、ひと息つく気持ちで挿入しているのである。カットに使っているミレーの絵は、何種類もあるなかで、エッチングとよばれる版画である。名画の奥にある事実に注目しよう。遠景は、収穫した藁の山が並ぶ前にこれを運ぶ荷車、富農を表わす。前景は、落ち穂を拾う3人の女性、貧農を表わす。
落ち穂拾い C
渡邊 彬さんの喜寿

 渡邊彬さんが喜寿を迎えた記念に、2冊の本をつくられた。
 「蓬莱」「私の道」
(喜の旧字体)は喜の草書体で七十七とよめる(岩波漢語辞典)から、77歳は喜寿・(喜の旧字体)寿と呼ばれる。喜寿というのは、人生における微妙な節だと思われる。60歳の還暦のあとに位置し、喜寿に次いで88歳の米寿、99歳の白寿と続く。
 渡邊さんは「六代目となった蓬莱家の家名・歴史の重さという思いから、ふたつの本をまとめた」と書いている。前書は、内藤成雄さんが雪解流に載せた『大蓬莱と云われた医・政・文人…渡邊瑳美』、という文の復刻版であり、渡邊さんが背負っている重さを解明して余すところがない。蓬莱家の初代は、1824年没の渡邊玄作というから歴史は古い。そして六代の彬さんにいたるまで、代々の人たちが北麓に大きな影響を与えてきたのだから、その家名は重い。後書は、読売新聞山梨版に05年8月から9月にかけ5回連載された、インタビュー「私の道」の記事が転載されている。筆者も実は、05年に喜寿に達したのだが、渡邊さんに比す重みはないから記念はしなかった。

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