(1) プロローグ 上
 内藤成雄(みちお)先生を囲む会が03年9月市内のホテルで開かれ、北麓文化をになう人々二百数十人がつどった。 あいさつに立った藤原正彦さんは、内藤さんを次のように評した。 父・新田次郎と内藤先生を結びつけたのは、父の著書・武田信玄を通してであった。先生は、新田次郎研究に関して今まではわが国で2番目くらいであったが、今回の先生の新著・新田次郎の跫音(あしおと)の発刊で、先生はまちがいなく新田次郎研究の第一人者となったーーー
 藤原さん独特のユーモアで微笑をさそった。 会の席上、内藤さんは次のようにあいさつした。 文学に開眼したきっかけは、新田次郎という人とその著書であった。新田次郎に会うたびに、富士山をまもれよ!といわれたことが、今でもはっきり耳に残っている、と
 ここで、新田次郎夫人の藤原ていさんの言葉を紹介しよう。内藤さんの著書「こぶしの花 新田次郎物語」の序文の中にある。 この著書は、今後「新田次郎」を研究しようとする人たちには、二度と得られない資料となることだろうーー

(2) プロローグ 下
 新田次郎息女の藤原咲子さんに、数年前のこぶしの会の宴席でたずねたことがある。
ーー新田次郎の名前の下に「こぶしの花」と続くのは、なぜ・・・ 父は信州諏訪の新田村で次男に生まれたが、故郷の山野が春色に染まるのにさきがけて咲くこぶしの花が大好きだった。大樹の枝いっぱいに大輪の白い花をつけるから、遠くからはっきりと見える、そんなこぶしの花を父は愛していた。 また、藤原ていさんは語っている。
 諏訪に、新田のことを思って集まって下さる会があり、諏訪こぶしの会という。毎年一回、新田忌の形で新田が眠る正願寺で開かれる。(内藤成雄著「こぶしの花 新田次郎物語」より) 富士こぶしの会が発足したのは1989年で、その経緯を内藤さんは次のように述べている。 新田文学をみんなで読み、学び、新田が憤りながら訴えた自然保護を、口だけでなく実践する会をつくろうと、この会を発足させた。(新田次郎の跫音・まえがき)
  このシリーズをはじめるにあたっては、内藤さんと新田次郎との結びつきのこと、その象徴ともいえるこぶしの花について述べる必要があった。

(3) 渡辺登治さんは語る 上 
 内藤成雄(みちお)さんは、北麓文化のいろんな分野のことを理解している人。だから、富士吉田市文化協会(文協)の会長に推された。 作家の新田次郎は文協のことを、次のように評価している(文協10年史より) ありとあらゆる芸術の縮図を文協10年史の中に見出した。文協ほど多くの芸術団体をその傘下に収め、10年にわたってそれぞれの成果を挙げているのは、全国各地でも今まで見たことがない。 よき指導者を得、民度性が高い土地柄だからだろう・・・
 文協理事長・渡辺登治さんが語る内藤さん像。 内藤さんは東北大学医学部を出たが、ご本人は物書きになりたかったという。文化のことは何でもわかるから、その分野にたずさわっている人のこともみんな理解する。 内藤さんは、文協が生まれる前の頃、市民合唱団の会長だったが、音楽活動のリーダーだった大場三郎・故人は言った。文化人の内藤さんを自分たちの会の長だけにしておくのはもったいない。市の文化グループの長にしよう、と。
 64・7・17付山日新聞によると、富士吉田に芸術研究集団が生まれた。文協の前身で、結成大会では、内藤さんに理事長として集団の指導運営をゆだねた。

(4) 渡辺登治さんは語る(中)
 内藤成雄さんのことを語る渡辺登治さん、このお二人は北麓の文化団体組織化の夜明けが始まった時期から、各分野のリーダーたちと共に文化活動を行なっている。
 夜明け前の動きとして文協10年史に載っているものに、53年設立の岳麓文化協会がある。活動の記録は不明というが、この協会に参加した各分野の先達が夜明けを促したのは、間違いなかろう。 各分野で独立した団体活動を進めていたリーダーたちが、まとまった動きを見せたのが富士吉田芸術研究集団で、57年に結成された。内藤さんは合唱団の、渡辺さんは劇団表現座のリーダーの一人として参加した。 芸術研究集団という名称は大庭三郎・故人の発案で、生活の中にとけこんだ文化活動を行なう自由な形での集りでありたいという所からつけられた。会長をおかないサロン的運営であった。 集団のエネルギーが市民会館建設運動に集中されるようになったのは、活動の場としての箱モノが欲しいという願望からであった。
 内藤さんが理事長となったことは前号で述べたが、内藤宅に集団の代表メンバーが集って、会館建設の市民運動の中枢的役割りを果した。

(5) 渡辺登治さんは語る(下)
 〜なにが、北麓の文化人たちを燃えさせたのでしょう〜 
富士五湖文化センター・富士吉田市民会館の建設運動のこと。 渡辺登治さんは語る。
 この運動の先頭に立った内藤成雄さんの、言葉と行動で説明しよう。 65年、内藤さんは都留公論誌に、会館建設を切望すると論文を書いた。
 「富士吉田市を文化都市とするための最低の線として、文化会館を作ろう。合唱の市としての歌声地下水の如く絶ゆることのない演劇活動、県下に指導的地位を占める婦人の組織活動、その他数多くの活動は、設備のない不利を克服しての市民のエネルギーを感じさせる 文化会館建設事業は、かれら活動家の悲願をかなえることにある」と。
 内藤さんの叫びは、57年に始まった市民運動の盛り上がりを受けたものだった。この運動の中核となったのが、内藤さんが理事長をつとめた芸術研究集団だった。65年に、建設促進協議会が結成された。69年に請願と陳情が行なわれ、この年の市議会で会館建設が決まった。70年完成の会館大ホールで毎年、表現座の公演が行なわれ、渡辺さんもそのステージに立った。

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